これまでに紹介された看板屋

今月の看板屋(2002年8月)
閑話休題(?)。看板の新彩社、松尾守芳さんが九広連広報誌「九広美」に寄稿された最新4編をご紹介します。


長崎筆供養草紙

新彩社 松尾守芳

 猛暑、酷暑と言われ、とにかく暑かった二○○一年の夏も終わり、九月十日はどことなく秋の気配が感じられる青空の下、長崎県屋外広告美術協同組合の筆供養が長崎市内の八坂神社の境内で行われました。
渡瀬理事長をはじめ、県内の組合員多数が出席して、これまで長年使い慣れ親しんできた愛用の筆をそれぞれ持ち寄り、午前十一時より供養碑の前で式次第により始まりました。
 今年も前年並みの数少ない古筆たちに火がつけられ、見る見るうちにひとかたまりの炎となっていきました。その炎を眺めているうち、先日のことが甦って来ました。
 数人の組合員と一緒に、夫婦だけでやっているこぢんまりとした「花鳥苑」という馴染みの小料理屋に行ったときのことです。店の中は客足も一段落したのか、カウンターの中で店主が数本の包丁を丁寧に、手際よく磨いていました。それを見ているうちに、いつか包丁を筆に代えて見ていました。私たちも一昔前までは、愛用の筆をあのょうに一本一本丁寧に手入れをしていたものです。高価な筆をおろすときの期待感、使ったあと感謝を込めての手入れ、これらがごく自然にあたり前に行われてきました。
 だが今はどうだろう。めったに使われなくなった筆たちが、ネオカラーの缶の中で淋しく再び使われるのを待っています。手作りが過去の技術となり、カッティングマシンが行き渡り、インクジェットが更に普及してくると、この筆たちの出番はますます遠のいていくことでしょう。店主は私がそんなことを考えているのを気にもとめない様子で、愛用の包丁を黙々と磨き続けていました。
 なんともいえない淋しさを感じてふと我に返ると、古筆たちは燃え尽き式典も終わりに近づいていました。宮司さんの「筆には心はないけれども、これを使うその人の心かよいてこそ、魂こもる筆となり、良き広告美術は生まれるものなり。」という祝詞に心をうたれ、玉串を捧げたあと、こうして二十一世紀最初の筆供養も、滞りなく終わりました。
九広美129号(2002年1月)



偏屈親父の「たかが言葉されど言葉」

新彩社 松尾守芳

 平成十三年一月一日発行の「九広美」で輝かしき21世紀のスタートという書き出しで投稿したものだが、九月十一日の米国同時多発テロ発生で、私達は否応無しに震撼とさせられてしまった。六十以上の国の人達が犠牲となられたそうで、このテロは多くの人々に癒し難い傷を残した。
 世の中がますます不安定さが加速していくような気がしてならない。このような状況の中でも、私達は組合運営を更に円滑化するように努力していくべきであろう。そんな折、日頃から思っていることを述べさせていただきます。
 「あの人からこんなことを言われたので、もう組合の例会に出る気がなくなった。」とか、「こんな腹の立つことがあったので、もう組合には顔を出さない。」というようなことをたまに聞くことがある。つまり、同じ組合員から気に障ることを言われたのが原因で、組合活動に参加したくなくなったということである。これは言われた方にしてみれば、もう頭にきてご立腹ということなのであろうが、案外言った方にしてみれば、何の気無しに言ったり、大したことではないと思ってしたことが多いような気がする。
 やはり、言った方は年長者で言われた方はその人よりも若い人の場合が多いようだ。何かの折に「あの人にこんなことを言ったのか。」と開いてみると、当の本人はケロッとして「そんなこと言ったかな。」と覚えてもいない。しかし、言われた方にしてみると、その後言った本人の一挙一動が何もかも気に食わなくなり、悪い方、悪い方にとってしまいがちなのである。これは何も他人事だけでなく、私自身も経験があることなので、ご立腹のご本人の気持ちはよく理解できる。
 私の場合でも、何の悪気もなくしたことを悪くとられて面と向かってお叱りを受けたり、陰口を叩かれたりしたこともある。しかし、悪いことばかりではなく、良い方についても同じことが言える。組合の先輩の人から、何気なくかけられた一言にすごく感動したり、力づけられたりすることもあるのだ。
 平成十一年に、長崎で九広連大会があったときのことである。その数日前に九広連会長が長崎に来られて、ホテルを長崎駅近くにとられたらしかった。コンクール審査日の朝早く、私が小さな工場で仕事をしていると、ひょっこり立ち寄られて親しく話をされたことがあった。九広連のしがない一組合員の工場にわざわざ訪ねられたことに対して、すごく感動したのであった。それは短い時間ではあったが、会長は私の仕事の手を止めてしまったことを丁寧に詫びて帰られた。おそらく私が感動したことなど全く気にも止めていなかったと思うし、私の工場に立ち寄られたことなど、すでに忘れてしまわれているかもしれない。そして、会長も別に意識して私の心を熱くさせた訳ではあるまい。だが、私の心の中には、今でもあのときのことが忘れられない出来事として残っているのである。
 このようなことは組合内でもままあることだろう。組合員の上に立つ人や年長者が口にした言葉や行動が、相手を力づけたり、感動させたり、あるいは傷つけたりすることが、無意識の中で行われている可能性があるということだ。「そんなことまで責任がもてるか」と言われればそれまでであるが、やはり上に立つ人の言葉には重さがあり、影響力があると思う。
 そのような細かい心遣いが、組合員に組合活動に参加する気を起こさせるかどうか、小さなことのようではあるが、やはり大事なことなのではなかろうか。私も還暦を過ぎた身であり、組合の中でも年長者の域に入ってきたので、私自身そのようなことに気配りをもって接していきたいと考えている。組合員の中には極楽とんぼみたいな人もいれば、些細なことにくよくよ、ぐじぐじ考えこむ人もいる。両者とも、それぞれに大事な組合を支えている構成員なのである。
 相手の些細な言葉やちょっとした行動、その一つ一つを善意に受けとめていければいいし、また、自らの言動も相手に与える重みを思いやってみるのもいいかもしれない。
「たかが言葉、されど言葉」そう思う所以である。
九広美129号(2002年1月)


偏屈親父、歴代理事長に感謝・・・

新彩社 松尾守芳

 久し振りにゆったりとした休日を過ごしていた日の午後、なんとなく組合の記録誌をめくっていて、ついつい昔を懐かしむ気分になった。そこには既に亡くなられた方々の笑顔があり、また、若々しい現在の組合員の方々の気取った写真があった。
 私は昭和三十七年に学校を巣立ってこの看板業界に入って、早いもので四十年になる。当時、長崎県屋外広告美術協同組合の理事長は小川平氏から日高明氏にバトンタッチされた頃だったと思う。この後も、改選の度数人の新埋事長が選ばれてきたが、その頃は私は若かったこともあり、理事長には近寄りがたく、話しかけることすら躊躇され別格の存在であった。当時の理事長は、どこに行くにも何をするにも身銭を切っていたようだ。その苦労は組合運営はもとより、金銭的にも大変だったと思う。最近では旅費の他、実費等は組合から出るものの、その苦労は何かと社会が複雑となっている現在では、以前にもまして大変なものだと思われる。
 一昔前の理事長と最近の理事長はどこが違ってきているのか考えてみると、組合を思う気持ちには変わりはないが、以前の理事長はいわゆるワンマン理事長だった気がする。ワンマン理事長は「黙って俺について来い。全責任は俺がとるから文句を言うな」的であったようだが、いつの頃からか、理事長も柔和になり、「和を以て貴しとなす」と声を荒げず、気配りの人になってきたようだ。どちらが良いかと問われれば、私は後者の方が現在の組合には合っているような気がする。一つの議案を決めるのでも、理事会に諮って決めればこれは理事全員の責任となり、ただでさえプレッシャーの多い理事長の負担を少しでも軽くすることが出来るからである。
 私自身、最近の理事長とはそれ程年令も離れていないせいか、親しみをもってお付き合いが出来て、以前のような近寄りがたい存在ではない。それにしても理事長という役職は大変なもので、昨今のこの不安定な世の中で自分の会社の運営もいろいろと問題が山積みしているであろうに、正直言って組合どころではないといというときもあるのではないかと拝察するに至ると、心から頭が下がり、感謝の気持ちでいっぱいになる。自ら立候補して理事長になった訳ではなく、私達組合員が頼み込んで、半ば無理やりお願いしてなってもらった理事長なのであるから、私達組合員はそれぞれが可能な限り組合運営には協力していくべきであろう。
 よく役職は人をつくるといわれるが、まさしくその通りで、理事長も年を重ねていくとその言動が埋事長らしくなっていくものである。最初の頃は何となくぎこちない様子だったのが、一年経ち、二年過ぎ二期目に入る頃には、押しも押されもしない堂々たる理事長の顔になっているから、たのもしい限りである。
 また、人には器というものがあるようで、歴代の理事長をみてみると、やはり、その時代その時代でなるべき人が理事長になっているようである。「サルは木から落ちてもサルだが、政治家が選挙に落ちたら、ただの人になる」といわれるが、理事長は任期で理事長を辞めたとしても、直ちにただの一組合員になって欲しくない。少なくともこれまでの貴重な経験を生かして、バトンタッチした次の埋事長には陰で力を貸し、アドバイスをして助けてもらえたら、新理事長もいかばかりか心強かろう。
 私達組合員は私達が自ら選んだ理事長の立場をよく理解し、「二階に上げて梯子を外す」というような無責任なことは絶対にあってはならないと思う。
 九広美128号(2001年8月)


偏屈親父、還暦に思う

新彩社 松尾守芳

 輝かしき21世紀のスタートの年に還暦を迦えることになり、なんとなく新年からいいことがありそうな予感を勝手に感じている。思い起こせば、旧満洲の新京で生をうけ、敗戦の混乱の中日本に引き揚げてきたが、その途中幼い頃から病弱だった私は何度も死に直面したという。無事日本に着いても当然住む家もなく五島の奈留島にいた母方の親戚の家に母と二人身を寄せ、居候として肩身の挟い日々を送った。母は朝早くから夜遅くまで馬車馬のように働きづくめで私に構う暇など到底なかった。
 払は空腹になると一人で畑の大根や人参、さつまいも等をおたまじゃくしの泳いでいる田んぼで洗って生でかじっていたのを覚えている。
 栄養失調気味の虚弱な私がよくも無事に還暦を迎えられるものだと感無量であるが、これも母の偉大な愛情のおかげと感謝あるのみである。
 そんな私が父の跡を継いでこの業界に入り早や四十年になろうとしているが昨年はこの仕事をはじめて以来最低の業績であったため今年こそはと思わずにはいられない。
 いつだったか「退職金もりストラもない自営業」という川柳を聞いたことがあったがまさしくその通りで看板業を個人で自営する私等には定年もなけれぱ退職金もリストラもない。あるのはわずかばかりの国民年金と運転資金、設備資金としての借金だけである。以前は同窓会等に出席しても皆んなそれぞれの分野で懸命にがんばっているのを見て、励みとなり自分も負けてはいられないと感じ仕事一途にやってきたものである。
 しかし最近では定年で退職金を手にし、あとは厚生年金とやらで悠々自適な第二の人生を送ろうという友の姿をみるにつけ我身をかえりみるとついつい淋しくなってくる。
 先日、近々定年退職するという同級生に合い杯をくみかわしている時、そういう話をしていると彼が言うには「何をぜいたく言っているんだ。俺は何も好きでやめる訳じゃないんだ。君はやろうと思えば一生続けられる仕事があるじゃないか。死ぬまでできる仕事があるという事は羨ましい限りだ」と逆に叱られてしまった。まあ、慰めの気持で言ってくれたのであろうが彼の言葉を前向きに聞き入れ、還暦の身にGパンをはいてパソコンとやらの厄介な化物と付き合いながらさらにがんばってみようと気持ちを新にしている。
 還暦というのは六十干支が六十一年目に再ぴめぐってくることから「暦が還る」お祝いとしての人生行事だと言われているそうだ。
 この還暦は生まれた干支に戻ることから生まれた時の赤ん坊に生まれかわったと考え、さらに人生の再出発として今後の長寿、無病息災を願い、赤頭巾や赤羽織をつけて祝うのも赤ん坊にたち返ったことを意味するという。
 赤ん坊に戻るというのだから新しく生まれ変わった気持ちで、生涯現役でボケる暇もない位に仕事に打ち込み納期に追われる日々を送ってみようと思っている今日この頃である。
 しかしながら、この頃の年になると身体のあちこちにガタがきだし、いくら精神的に若いつもりでも身体の方がいうことを間いてくれない。
 高血圧症、座骨神経痛と身体に症状が出るにつけ、どっちみち元の若い頃には戻らないのであるから、これらの病気と仲良く付き合いながらとりあえず、父の寿命であった七○歳の古稀まで現状維持を保っていきたいと願っている。
最後になりましたがこの新しい年が九広連のさらなる発展の年になり、組合員の皆様のますますのご健康、ご多幸、ご繁栄を心からお祈り申し上げます。
 九広美127号(2001年1月)


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